幸せを学問にするウェルビーイング学研究科 ― 武蔵野大学の挑戦

仕事や人間関係、日々の暮らしの中で「幸せ」とは何か――そんな問いに向き合う新しい学びの場が登場します。
武蔵野大学は2026年4月から大学院に「ウェルビーイング研究科」を新設。8月29日に行われた記者発表会では、心身の健康や社会のつながりをテーマにした幅広い学びが紹介されました。
ウェルビーイングとは、一時的な喜びではなく、持続的で全人的な幸せのこと。医療や教育、地域社会、そして働き方にまで応用できる考え方です。
100年を超える歴史を持つ同大学が、次の100年に向けて「世界の幸せを形にする」という理念を実践する姿勢は、私たちのライフスタイルを見直す大きなヒントになりそうです。

幸せを数値化できる?ウェルビーイングの本当の意味

「ウェルビーイング(Well-being)」とは、単なる幸福感や快楽を超えた、心・体・社会すべてが良好に満たされている状態を指します。文部科学省も「多様な個人がそれぞれ幸せや生きがいを感じるとともに、社会や地域全体も豊かさを感じられる良い状態」と定義しています。

一時的な感情としての「ハピネス(happiness)」と異なり、ウェルビーイングは持続的で全人的な幸せ。医療や福祉、教育やまちづくり、企業活動に至るまで幅広く応用できる概念です。
近年はGDP(国内総生産)だけで豊かさを測るのではなく、「地域幸福度」などウェルビーイングに基づいた新しい指標を導入する自治体も増えています。

ウェルビーイング学について熱く語る前野隆司氏

研究科長に就任予定の前野隆司氏(慶應義塾大学名誉教授)はこう語ります。
「現代社会は分断や利己主義が進み、創造性も失われています。その解決のカギの一つがウェルビーイングです。幸せな人は視野が広く、利他的で、創造的に成長できる。つまり『いい人』なんです」

ウェルビーイングの考え方は新しいものではなく、実は1946年のWHO憲章にも「健康とは身体的・精神的・社会的に良好な状態である」と明記されていました。古くて新しい概念が、今改めて注目を集めています。

世界で唯一の「ウェルビーイング研究科」

武蔵野大学は昨年、学部段階で世界初となる「ウェルビーイング学部」を設立。そして来年度からは大学院研究科が加わります。

海外にもペンシルベニア大学やメルボルン大学、イースト・ロンドン大学など、心理学の一分野としてウェルビーイングを扱う大学院は存在します。しかし前野氏はこう強調します。

「職場や地域、製品やサービス、行政活動や教育にまで応用する学問として、これほど幅広い視点を持った大学院は世界でも唯一です」

研究科の特徴は、若者だけでなく社会人やシニア世代など年齢や職業を問わず受け入れる点です。実際の仕事や地域活動の中で培った経験を持つ人こそ、学びの成果を社会に還元できると期待されています。

カリキュラムは以下の4本柱で構成されます。

  • 科学的ウェルビーイング ― データやエビデンスから知る
  • 哲学的ウェルビーイング ― 幸せの本質を突き詰める
  • 感性的ウェルビーイング ― 話し合いや体験を通じて感じる
  • 創造的ウェルビーイング ― 新しい幸せを生み出す

哲学、宗教学の観点からウェルビーイングを学んでいる一ノ瀬正樹氏、地球・環境規模でウェルビーイングについて研究している山田博氏、稲葉俊郎氏も医療・福祉の観点からの持論があります。幅広く医療・看護、哲学、工学、環境科学、地域実践まで、多様な専門家が教員として参加。文系と理系、学問と実務を超えて融合する研究環境が整っています。

幸せを社会に広げる人へ 武蔵野大学が育てたい人材像

トークセッションでAIの可能性について話す矢野和男氏

発表会では、日立製作所フェローの矢野和男氏も登壇しました。彼はデータ収集・分析の観点からウェルビーイングを研究し、それを使った生成AIサービスを提供しています。

「太古の昔から20世紀までの学問はどんどん生まれ細分化されてきました。私たちが得た知識や人類が長い間培った歴史はもはやAIがほとんど網羅しているといっても過言ではありません。今はAIを使えばその気になれば子どもでもあらゆる知識を活用することができる時代です」

矢野氏はAIが知識面をカバーできるからこそ、人間としての役割をどう発揮するかが重要だと語ります。

「AIには仕事を代替する側面と、人間の力を拡張する側面があります。前者の代替については今も電話のオペレーターやデータ収集などさまざまな職種がAIに置き換わり、賛否があるにせよ今後も増えていくのが現状です。後者、つまりこれはAIを反対にした“IA(Intelligence Amplification=知能増幅)”という言葉になりますが、AIを活用して創造や決断ができる人材がこれから必要なのです」

ウェルビーイングの学びは、こうしたIAを駆使した知識にさまざまな経験を積んだ人々の新しい視点を掛け合わせ、リフレーミング(新たな捉え方や視点を得ること)をできる人を育みます。AIに仕事を奪われるのではなく、AIを使いこなして創造性を広げる。そのための人間力を養うことができるといいます。

「物事をもっとクリエイティブにリフレーミングできる人を増やす。そうすることで言ってみれば明治維新のように新たな時代の起爆剤になる人が生まれれば、そんな風に思っています」(矢野氏)

しかし一歩間違えば、AIが導き出す答えに頼りすぎて、自分で考えることを放棄することにもつながりかねません。この点はシンギュラリティ(技術的特異点)の問題として多くの専門家が問題提起をしています。

「やはりAIに振り回されないためにも、自身の人間力を高めないと AI以下の人間になってしまう。より人間らしく生きる人を育てなきゃいけない。私はそう考えます」(矢野氏)

精神科医としての顔ももつ小西聖子学長

精神科医でもある小西聖子学長も、AI時代の教育に警鐘を鳴らしました。
「私の専門の精神療法の世界でもAIへの置き換えの波は来ています。例えばサポートカウンセリングは「AIで十分と言ってしまえば語弊がありますが、ある程度のところはできます。要するに人を傷つけないで、ちゃんと話を聞いてサポーティブな反応するというだけならAIでもできるんです。そのことを考えると一体どこまで仕事が起き変わるのか。AIがすべてのサポートカウンセリングや仮に教育を担う時代になった時、人間にしかできないことは何か。今こそ深く考え、準備しておく必要があります」

AIに飲み込まれないための人間力は経験や挑戦する力、幸福度によって支えられるもの。だからこそウェルビーイングを学ぶことは必要なことなのです。

ウェルビーイング研究科が求める人材

「武蔵野大学のブランドステートメントは『世界の幸せを形にする』。この考え方はウェルビーイングの考え方ととても親和性が高いと私は考えています。そして私の仕事である精神科医の分野においても強く響き合って相性がいい学問だと感じています。人々の苦しみを減らし安らぎを願うという思想は、現代の言葉で言えばもうウェルビーイングそのものだと思います」

そう話すのは武蔵野大学の小西聖子学長。
小西学長は「どんな仕事もアクションも、必ずウェルビーイングに繋がり得る」と語ります。

「利他の精神とも言いますが、『人の役に立つ』ということがその人を支え得るんですね。 小さなことでも自分の行動が誰かの役に立ったという実感は、大きなモチベーションにつながります。そこは、時代がいくら変わっても昔から全く変わらない人間のありようです。だからこそ、すごく生きる上で大事なことだと思います。それがあってこそ世界はまだ成り立っている」

人を支え、役に立つ経験は人間の根源的な喜びであり、そこにこそ生きがいが宿るのです。
研究科では、主に社会人を対象とした科目等履修制度や、オンライン学習にも対応。人生100年時代に合わせた「学び直しの場」としての役割も重視しています。

矢野氏もウェルビーイング学に大きな期待を寄せて言葉を繋ぎます。
「雇用の流動化が進むなかで、学び直しによって新しい仕事の中心を担う人材は増えていく。ウェルビーイングを学ぶことが、キャリアの大きな武器になる」

小西学長は最後にこう結びました。
「22歳で学びを終えて一生身を粉にして働くだけの時代はもう終わりました。人生の途中で立ち止まり、幸せとは何かを考え直すこと。それを学びに変えることが、これからの時代に必要なのです」 ウェルビーイング学が日本だけではなく世界を革新していくかもしれません。